満員電車
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これは、都内のIT企業に勤めるNさんから伺った話だ。
Nさんの朝は、いつも満員電車から始まる。
車内では、電車の揺れに合わせて人の波がぐうっと押し寄せ、身動き一つ取れない。
そんな日常の光景の中で、彼はある日から、背中に奇妙な感触を覚えるようになったという。
その感触は、誰かの手が触れているのとは少し違う。
生温かく、ぬるりとしている。
ぎゅうぎゅう詰めの車内だ。みんな、当然のように汗をかいている。
だから、腕や手の平だったとしても、そういう感覚だろう。
あるいは、カバンのような持ち物だったとしても、汗にまみれて濡れている可能性がある。
Nさんは、そう思うようにしていた。
しかし、その感触は、じっとりと肌に纏わりつくように、断続的に続くのだという。
まるで、粘度の高い液体を塗りつけられているかのような、不快な感覚。
そして、ふとした瞬間に、ツンと鼻につく匂いがした。
鉄が錆びたような、あるいは古い血のような、生臭い匂い。
もちろん、明確にはわからない。
車内の空調につけられたデオドラント臭の中に、人の汗のにおいや口臭のにおい、化粧品のにおいに香水のにおい、柔軟剤の匂いといったものが混ざっている。
その混ざった空気の中に、どうにも生臭い匂いが感じられたのだそうだ。
Nさんは、電車を降りるたび、恐る恐る背中を確認していた。
しかし、服にはシミひとつない。
だが、肌にはあのぬるりとした感触がこびりついているようで、言いようのない気味の悪さを感じたという。
さすがに滅入ってしまったNさんは、ある時、会社の同僚にその話をこぼした。
すると、その路線を長く使っているという年配の社員が、ぽつりとこんなことを口にしたそうだ。
「そういえば昔、あの路線で人身事故があったよなあ」
年配の社員いわく、十数年ほど前、痴漢の疑いをかけられた若い男性が、潔白を訴えながらホームから身を投げたのだという。
その男性の遺体はひどく損傷していたが、なぜか右手だけは、ほとんど無傷で残っていた。
右手のかたちは、まるで何かを強く掴んでいたかのようで、発見時には水分でじっとりと濡れていたという。
「とはいえ、人身事故なんて、そう珍しい話じゃないけどな」
年配の社員はそう言って、笑ったそうだ。
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